ポルポト派の狂気

●カンボジアのポル・ポト政権、戦慄の歴史

カンボジアは北海道の2倍程度の面積の国だ。人口は現在約1千万人。
首都はプノンペン。カボチャはこの国から伝わったのでその名がついた。
カンボジアの歴史は苦難の一言に尽きる。

かの有名な遺跡、アンコールワットが建設された12世紀ではインドシナ半島で最強の国家だったものの、その後は衰退の一途を辿った。
ベトナムやタイに領土を奪われ、第二次世界大戦渦中はフランスの植民地だった。
その状況を打破したのが王族の血を引くシアヌークだった。
大戦後、彼は国際世論を巧みに操り、フランスから国土を解放した。
1953年のことである。

この功績により彼は「カンボジア独立の父」として民衆に敬愛されることになる。
多少独裁の色は濃いとはいえ、彼の手腕で国はそれなりに機能した。
それでも後のポルポトによる圧政時代と比べれば格段に自由な時代で、当時を懐かしむ人々も多いという。

そう、それほどポルポトの時代は酷かったのだ。

1970年。米ソ冷戦下。
アメリカのバックアップでロンノル将軍がクーデターを蜂起し、シアヌークは中国に亡命する。
クーデターを実際に画策したのはCIA。完全にアメリカのわがままだった。
このアメリカの暴挙には以下のような背景があった。
1961年からのベトナム戦争でアメリカは南ベトナムを応援した。

腐政に苦しむ南ベトナムの農民&ベトナムの統一を目指す北ベトナム軍
VS
利益を守るために邪魔な共産主義を排除したい南ベトナム軍。

資本主義のアメリカはこの構図にも関わらず南ベトナムを応援した。
民衆の幸せなんて一切考慮していない。
ただ、北ベトナムの共産主義が気に食わないから南側を応援したに過ぎない。

ベトナムの南側と国境を接するカンボジアとしては南ベトナムが勝利して力をつけると自国が占領される恐れがあった。
よってシアヌークはベトナム寄りのカンボジア領に北ベトナム(解放軍)の補給基地をつくることを暗黙の上で了解した。
これで南ベトナム軍は南北から挟撃される形になってしまった。

アメリカとしてはカンボジア領の補給基地を爆撃したいが、国際世論もあるのでカンボジアの了解が要る。
ただ要請するだけではシアヌークは承知しない。
よってアメリカは経済援助の凍結を武器に何とか爆撃を認めさせた。
そしてカンボジアの民衆ごと補給基地に爆撃を浴びせた。
ベトナム軍だけでなく、カンボジアからも難民が大量に発生した。

この事実を証拠にシアヌークが国際世論に訴えれば、アメリカはベトナムから手を引かざるを得ない。戦争に負ける。
そこでカンボジアの要人・ロンノル将軍を使ってシアヌークを追放し、カンボジアを意のままに操ろうとしたのだ。
「世界の警察」は随分身勝手なことをする。
むしろいない方がいいのでは?

ロンノル政権に移ってからは、弾劾される可能性はないので、アメリカはさらに爆撃を徹底して行うことができた。
カンボジア人の死亡者は30万人。200万人の難民が新たに発生した。
それと同時にロンノル政権は重税をかけて国民を苦しめた。
亡命したシアヌークはすぐに軍隊を編成し、協力者を募った。
賛同したのはロンノル政権を排除したい北ベトナム軍。
そしてクメールルージュ。筆頭はかの有名な暴君、ポルポトだった。

民衆に人気の高いシアヌークの名を全面に押し出すことで、クメールルージュは多数の志願兵を得た。
ここで解放軍の実質上のトップにポルポトが踊り出た。
ただしこの時点ではポルポトは温厚で、農民と共に汗を流し、田畑を耕したりもした。
兵士達も皆、友好的だったという。

そしてベトナムがアメリカと合意して戦線を離脱したにも関わらず、ポルポト率いるクメールルージュは1975年にロンノル政権を倒し、カンボジアをロンノル将軍から解放したのである。
ここまではポルポトよりもむしろアメリカの方が悪者である。

ここまでは。

ポル・ポト率いる解放軍は首都プノンペンに入ると、すぐに民衆を着の身着のままで強制的に地方の農村部に移すということを開始した。
逆らう者は容赦なく殺した。次々と殺した。
同様の行いが大小含む全ての都市でなされた。
これらはあまりに迅速に実行されたので国外に逃げられた人はほとんどいなかった。
そして国内を「平定」した後は以下の政策を迅速に施行した。

・私有財産の強制的な没収、貨幣制度の廃止
・電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止
・バス、鉄道、飛行機等の移動手段の廃止
・全ての教育機関の廃止と書物の焼却
・仏教の禁止、寺や像の破壊、民族音楽や古典舞踊の禁止(関係者は全て殺された)
・都市市民の農村部への強制移住
・家族概念の解体。2~5歳以上の子供は全て親から隔離
・自由恋愛の禁止、無作為の相手との強制的な結婚

異論を唱えた者、従わなかった者は全て処刑された。
投獄なんて生易しいまねはしない。全て殺された。
徹底していると普通は思うだろう。
これだけでも歴史上類を見ない暴虐だと思うだろう。
しかしポルポトはそうは思わなかったらしい。

次にポルポトは理想国家の建設のために協力者を集めた。

『例えロンノル政権に加担していたとしても私は許す。資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。それから海外に留学している学生も帰って来て欲しい。理想国家を作るためには君達の力が必要だ。大切なのはカンボジアの未来なのだから』

国を良くするため、という言葉に共感した<インテリ>が次々と現れ、それこそ国内のほとんどの高い教養を得た人々、海外に留学していた学生達がポルポトの元に集った。
彼らはポルポト兵に連れて行かれ、二度と帰って来なかった。

ポルポトは大嘘をついていた。
彼はフランスに留学していたので民衆の集団決起の強さを知っていた。
よって理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、その指導者になれそうな教養を持った人間を一掃したかったのだ。
そして民衆を少ない食事で朝から晩まで牛馬のごとく働かせた。

不満を言う者、働けない者はどんどん殺した。
『疲れた』と言っただけで、スプーンをなくしただけで殺された。
次のような者も即刻殺戮対象となった。
・眼鏡をかけている者
・肌が白い者
・手が綺麗な者
そして、
・美形
家族に至るまで、全て。

ポルポト率いるクメール・ルージュ政権は、密告を奨励した。
妻が夫を、夫が妻を、子が親を密告し、隣人を密告する、そうした恐怖の密告社会の中で、国民は互いに殺し合った。
少しでも正義感が強いとか、物事を考える者はそれだけで殺された。
家族、一族もろとも。

誰も信用できず、栄養が足りず、指導者もおらず、反乱の芽は種になる前に焼かれた。
国民はポルポトに従うしかなかった。
ポルポト兵に入隊できるのは13歳以下の少年に限られた。
ポルポトの意向通りに洗脳し易いからだ。

結果、少年達はポルポトを神とあがめ、命令があれば肉親でも殺す鉄の兵隊になった。
そうしてポルポト兵は狂信的集団へと収束していった。
1975年から1978年の3年間のポルポト政権の期間でカンボジアでは約300万人の死者が出た。
これは国民の1/3に当る大虐殺であった。

なぜ世界がこの虐殺を取上げなかったのか。
それには大まかに2つの理由がある。

1つはポルポトが徹底した鎖国政策をとり、人の移動や情報を封鎖したこと。
もう1つは突拍子のない話で、真実味が感じられなかったこと。

実際に何とかこの虐殺を報道するまでに至ったこともあったが、自国民をそこまで意味もなく虐殺するなどあり得ないと判断されたのだ。
国家にとって何の利益ももたらさないではないか、と。
だから誰も信じなかったというわけだ。
しかし虐殺疑惑の波紋は止め様もなく、取材の依頼が殺到した。

拒否し続けて国連の視察団が来れば致命的と判断したポルポトは限定地域、限定期間での取材を承諾した。
そこでは裏工作がなされ、平和な村を装ったので事実は隠蔽された。

疑問を解消できなかったジャーナリストの一部は果敢に独自の取材を展開したが、そのほとんどは行方不明になった。
まず間違いなくポルポトの命で殺されたのであろう。

ポルポトによる狂気は1979年のベトナム軍の侵攻をもって、公式の上では終わりを告げた。
そこでベトナム軍の兵士たちは戦慄に震えた。
実はベトナムの情報筋も、クメール・ルージュによる虐殺の噂は尾ひれのついたものであろうとたかをくくっていた。
だが、蓋を開けたときに見たものは、噂を遥かに超える『事実』だったのだから。

ポルポト軍はタイ国境のジャングルへ逃げ落ちた。
ポルポトは逃げる前に軍人以外の民衆800万人を殺そうとした。
未然に防げたからいいようなものの、もし実行されていれば生き残ったのは軍人5万人と逃げていたカンボジア人5万人。
わずか10万人ではもはや国家とは呼べない。
カンボジア解放後、残った国民の85%が14歳以下の子供であった。

これらの出来事が起こってからまだ30年弱。
決して遠い昔の話ではない。
つい最近に現実にあった悪夢。
これがクメール・ルージュ、そして純朴なる共産主義者・ポルポトの夢見た『理想』のなれの果てなのだ。

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