大学時代の話をひとつ。長文でスマソン
一人暮らしを始めてまもなくの頃からか、時折、金縛りと言うものを経験するようになった。
眠っていると、妙な寝苦しさを感じ眼を覚ます。すると、決まって身体が動かない。
頭の中はもやがかかったように不鮮明で、妙な不安と焦燥で一杯になっている。
胸の辺りが押さえつけられているかのように息苦しく。声を出すことも出来ない。
そんな状態が十分ほど続いたかと思うと、強烈な眠気が襲ってきてそのまま再度眠りにつく。
パターンとしてはおおむねそんな感じだ。
ともあれ、当時の俺はそれが霊現象の類だとは思ってもいなかった。
せいぜい、生活の激変から来る俺自身も気づいていないストレスやら何やらなのだろうと、さして気にもしていなかった。
ところが、一年ほど経っても、同じような事が月に一度。或いは暫く間をおいて二、三ヶ月に一度と続くようになると、流石に妙な気分になってくる。
しかしながら、何らかの対処法があるわけでもなく、また、金縛りに遭う以外にこれと言って妙な体験をしたわけでもないので「たまに寝苦しい夜もあるわな」くらいにしか認識していなかった。
所が、まんざらそういうわけでもないらしい、などと漠然ながらも思い始めたのはそれから更に数ヵ月後の事だった。
その夜も、妙な寝苦しさから目を覚ますと、いつもと同じように身体が動かなかった。
呼吸もねっとりと絡みつくように重く、起きた瞬間から、根拠のない不安と焦りが、脳内をぐるぐると
回り続けている。指はおろか声をあげる事も出来ずに、焦点のさだまらない視点だけが漠然と
室内を真横に眺めていた。
そこで、ふと違和感に気づいた。部屋の中が妙に明るい。確か、寝る前に電気は消したと思ったのだが、
寝ぼけてつけてしまったのだろうか? 寝床から立ち上がって入り口付近まで歩いていって、胸の高さにある
スイッチを押して? もしそうなら、俺は間違いなく夢遊病者だろう。
置かれている家具や室内の様子から、そこが自分の部屋だと言う事は分かった。だが何かがおかしい。
明るさの問題だろうか、いつも俺の部屋を照らしている蛍光灯のそれとは違う、少し前の大きな病院で使っていた
ような白を強調した光だった。
それが、切れかけのような薄暗さを伴って室内を照らしている所為で、まるでそこが自分の部屋では無いような
微妙な違和感を感じた。
そして、何より、
(……誰だっけ?)
先ほどから固定された視線の先、食事やレポートに使うちゃぶ台の前に、誰かが座っていた。
長い髪と、身体のラインから何となく女性ではないかと思われるその人物が、こちらに背中を向けて正座している。
勿論、知り合いではない。
よしんば知り合いだったとしても、こんな夜中(時計を確認できないので時間は分からなかったが)に、勝手に部屋に上がってきて、無言で座っているような人物に心当たりなどあるわけがない。
暫くその背中を眺めている(と言うよりも、指一本動かす事が出来ない状態だったので、凝視せざるを得なかった
わけだが)と、微動だにしなかったその背中が、ゆらゆらと左右に揺れ始めた。
最初は小刻みに震えるくらいから始まり、次第にそうと分かるくらいに大きく。
よく、中学の音楽室などにメトロノームがあると思うが、イメージとしてはそんな感じだと思う。
髪を振り乱すわけでも、声を上げるわけでもなく無言で、不規則に揺れる女の後姿。
はっきり言ってシュールではあったが、同時に不気味でもある。
そもそも、いきなり夜中に眼が覚めたら見ず知らずの女が部屋にいて、それが揺れ始めたと言う不条理極まり無い状況に、俺は既に軽いパニックに陥っていた。
そうして、どれくらいが経ったのか、不意に女の身体が揺れる方向をそのままに、いきなり床に真横に倒れこんだ。
床に頭をぶつけたのか「ごとん」と言うやたら鈍い音が響き渡り、そのままぴくりとも動かなくなった。
まさか、揺れすぎて眼でも回したか、頭に血でものぼったのか、はたまた頭を打って気絶したのか。
声をかけようにも(そんな気は更々無かったが)声も出ない。パニック状態で考えもまとまらない。
ただ、見続けるしかない状況の中で、女の身体が少しずつ動き始めたのは、次の瞬間だった。
小さく身をよじりながら、ゆっくりとこちらを向こうとしているのが分かった。
肩口が見え、妙に細くて薄汚れた腕が見え、少しずつその前面が明らかになってゆく。
出来ることなら眼を逸らしたかったが、未だ絶賛金縛り真っ只中にある俺には、それを黙って見ていることしか出来なかった
眼をつぶる事すら出来ずに、不自由な呼吸だけが荒くなってゆく俺の目の前で、彼女は完全にこちらを振り返った、ように見えた。
女には顔が無かった。正確には、長い後ろ髪と同じものが、顔の前面にも広がっていた。
つまりは頭全体が長い髪で覆われているのだ。だから、その顔を確認する事は出来なかったが、髪の奥から覗く視線のようなものは何となくではあるが感じる事が出来た。
彼女は間違いなく、俺の方を見ていた。
そして、俺が見ていることにも気づいたのだろうか、女は這いつくばるような姿勢でゆっくりと立ち上がると、猫背と言うには余りにも妙な前かがみの姿勢で、俺の方に近づいてきて――
不意に襲ってきた強烈な眠気と共に、俺はそのまま意識を失った。
眼が覚めた時は既に朝で、室内には誰もいなかった。俺は嫌な汗をぬぐいながら、昨日の事を思い出す。
夢かとも思ったが、昨晩、確かに消したはずの室内灯がしっかりと点いたままになっていた。
それでも夢だと思いなおし、気を落ち着けようと思ったが、残念ながらそれは無駄な努力に終わった。
昨日、女が座っていたと思しき位置のカーペットが、黒ずんだ色に変色している。
そして、そこから何かを引きずったような跡が俺の枕元まで続いていた。
昨晩、あれから何があったのか、俺には知る由もない。
部屋はとりあえず、それから大学卒業まで住み続けた。それからも時折、金縛りには遭ったが、女の姿は見なかった。
俺の体験は、大体こんな所。
ほんのりと怖い話56