かなり前の話になる。
サーフィンを始めたばかりの俺は、誘いがあればどこにでも出かけていった。
九月のある週末、友人が茨城の方へ行くというので、便乗することにした。
土曜の夜に都内を出発し、少し仮眠して明け方海に入るという強行だったが、ちょっとしたキャンプ気分で楽しかった。
海水浴場から離れた場所に車を止め、砂浜でビールを飲みながら弁当を食った。
友人は寝つきが良いらしく、零時過ぎにはいびきをかいていたと思う。
俺は興奮して寝付けず、寝袋にくるまって星空を眺めていたかな。
付近を走る車の音も消え、砂浜に寄せる波音だけがしていた。
その単調な響きに波高を思い浮かべたりすると、ますます目がさえてくる感じになった。
一時間近くも耳を澄ましていただろうか、遠くのほうから声が聞こえてくるような気がした。
空耳かと思いつつも、目を閉じて意識を集中すると、彼方から
たーすーけーてー
と、抑揚も緊張感もない女の声がする。
しばらくすると、波の音に紛れて再び
たーーすーーけーーてーーー
まるで演劇部の学生が発声練習でもしているような感じだ。
もしやと思い、傍らの友人に声をかけたのだが、眠りが深いせいか応えはない。
俺はごそごそと寝袋から這い出て、声のする方へ歩き出した。
小型のマグライトで辺りを照らしながら、立ち止まっては耳を傾ける。
(あれっ、声がした!)と思った時には、常に背後から聞こえてきた。
怖いとは感じなかった。
視界には友人の寝姿が入っていたし、波打ち際を慎重に歩いているつもりだった。
押し寄せる波音がひときは強くなったと思った瞬間、俺は膝まで海に浸かっていた。
その時だ。
耳元ではっきりと声がした。
た す け て よ
俺は首根っこを冷たい手でつかまれたように感じて、振り返ろうとして体勢を崩し、引き潮に足を取られていた。
誰かが背中から覆いかぶさっているみたいだった。
それを振り払おうするうち、あっという間に波にのまれた。
声を上げようとして海水をしこたま飲み、パニック状態のまま海の中へ。
死に物狂いだった。
はっきりしてたのは、何かが俺にしがみついていること。
「おいお!何やってんだよ」
誰かがトレーナーの襟首をつかみ、俺を引き寄せた。
背の届かない深さで溺れていたと感じたが、立ち上がると臍下くらいか。
相手は地元の人で、彼女とドライブしてたとのこと。
俺が酔っ払って暴れてるかと思ったそうだ。
けれど彼女は焦って、「助けないと危ないよ」と言ったそうだ。
しばらくして落ち着いて、俺はその地元の若者に礼を言った。
その彼女にもお礼がしたいというと、相手は遠慮して、車の方に戻っていった。
俺はせめて頭だけでも下げようと思い、ちょっと離れて後を追った。
相手は車に乗り込み、ハンドルを切った瞬間。
なぜだろう?
助手席には誰もいなかった。
死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?83