風呂の「それ」

入社3年目の6月、私は愛知県の営業所へ転勤となり、引っ越しすることになった。
会社が探してくれた2DKのアパートは独り身には広すぎるようにも思えたが、入社以来、狭い寮で生活していた私の目には非常に魅力的に映った。
職場にも近いし家賃も安い。なにより風呂付きなのが最高だった。

引っ越して何日目かの夜、風呂でシャワーを使って髪を洗っている最中のこと。
水流でぼやけた視界の隅に、一瞬妙なモノが映った。
浴槽の縁に置かれた両の手。
慌てて目を見開いて向き直ったが、手などどこにもない。
『目の錯覚だろう…』
その時は、そうやって自分を納得させた。

しかし、そんな性根をあざ笑うかのように、「それ」はしばしば私の前に姿を見せた。
シャワーを浴びている時、石鹸を置いて振り返る時、洗面器に手を延ばした時視線が浴槽を掠めるその一瞬に、私の眼が「それ」を捉える。
浴槽の縁にしがみつく白い手。
半ば反射的に視線を戻しても、次の瞬間には跡形もない。
それでも、回を重ねるうちに「それ」が子供の手だということに確信するようになった。

1ヶ月ほどたったある休日、私は部屋の整理をしていた。
荷物を収納しようと、備え付けのキャビネットの一番下にある引き出しを開ける。
底に敷かれていた厚紙を引っ張り出すと、その下にあった何かがヒラリと床に落ちた。
拾い上げて見る。幼稚園児くらいに見える男の子の写真だった。
とっさに風呂場の手を連想し、気味が悪くなったので他のゴミと一緒に捨てた。

その日の夜、テレビを見ていると浴室から何やら物音が聞こえた。
行ってみると、普段は開けっ放しの浴槽の蓋が閉じられている。
開けてみると、冷水が縁ギリギリまで一杯にたまっていた。
夏場はシャワーのみで済ますため、浴槽に湯をためることなど無いはずだった。
考え込みながら水面を眺めるうちに、私の背後にスッと影が立つのが見えた。
肩越しに、髪の長い女の姿─

ドンッ

不意に背中を押され、私は頭から冷水に突っ込んだ。
慌てて持ち上げようとする頭を凄い力で押さえつけられる。
もがいて逃れようとするがビクともしない。肺から空気が逃げ出していく。

パニックに陥る寸前、私は床を蹴って浴槽に身を躍らせた。
体を回転させると、浴槽の底に手足を突き、全力で体を持ち上げる─

ザバァ───
水面を破って立ち上がると、呼吸を整え、周囲を見渡した。
誰もいない。
風呂場の扉は開いているが、外の様子はうかがい知れない。
風呂場から出る勇気が出ないまま、私は浴槽の中に立ち尽くしていた。

…サワ…

ふくらはぎに何かが触れた。小さな手にゆっくりと足首を掴まれる感触…
私は悲鳴を上げ、ずぶ濡れのまま浴槽から、風呂場から、アパートから飛び出した。

私が引っ越す前、ここに誰が住んでいたのか?ここで何があったのか?
大家はそれを語ろうとしなかったし、私も聞こうとは思わなかった。
それから部屋を引き払うまでの約一週間、
浴室の扉の前には荷物を一杯に詰めた段ボールを積み上げておいた。

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