男の声

十五年ほど前の春過ぎ頃、大日杉から飯豊山を経て大日岳に行くコースを1泊2日予定(移動と念のため休暇は4日)で登った。
テント泊の予定であったし前日の仕事終わりが遅かったこともあり、8時過ぎに大日杉を出発してゆっくりと進み14時に一乃王子にテントを張り野営地とした。

夕飯を取り暫くはまったりと過ごしていたが寒さもきつく眠気も増したのでそうそうにシュラフに潜り込んでいくばくか、ふと、物音で目が覚める。
何かの小動物がテントに当たるようなポスポスという音が何度かして止んでから耳を澄ませていると「すみません」と、消え入りそうなほど掠れた男の声。

登山者か?時間を見ると20時過ぎ、テント越しの空気は冷たそうで暗い。
その時なぜか「そうか、多分夕飯の分前にありつきにきたな」と思った。
その頃はもう少なくなっていたが昔は食材無しで登山して他の登山者から分前をもらうという登山スタイルをしている若者がいたんだ。
昔の登山者は基本的に運命共同体意識が強いから、そんな乞食行為も粋な登山スタイルとして認めていた

さて、明日の朝のためにとっておいた夕飯の残りがどれだけあったかなと思いつつハイハイとテントを開いて外を見ると、はて誰もいない真っ暗闇。
他に人がいれば少なからず明かりがなければ行動不能なくらいの薄い月明かりの中に出て、周囲を見渡しても人どころかテントの形跡さえもない

そういえば、テントを叩いてる時も声がした時も明かり一つ見えなかったな。
声が小さかったこともあり、そうか、幻聴だったかな。動物の鳴き声と人の言葉を聞き間違えたかなと思い直してテントの中へ戻りシュラフに包まった

暫くしてまた夢うつつ半分起きてるような状態になると、テントをポソポソと擦るような軽く叩くような音がする。
それがやんで30秒くらいすると、また「すみません」ととてもか細い男の声。声の主は20代前半かと思われるようなまだ若い声。
今度こそ人だ。「まったくさっきはどこに消えたんだか」と思いつつも、またハイハイと返事をしてテントを開けてみるとやはり誰も居ない。

山では不思議なこともあるもんだと聞かされていた自分は少し寒気はするものの、何、食われるわけでもないさ友達への登山ネタが増えたと平静を保ってまたシュラフに潜った。
でも、実際はかなり内心テンパってた。まったく眠気が吹っ飛んでしまった。
ここで剛気を保てなくなれば自分はパニックのまま夜中の山の中を転げるように逃げ出してたに違いない。
テントを狙われているとすれば生身と最低限の荷物をザックに詰め込んでここを脱出しなければならない。それは間違いなく死に直結する事だ。
気を保って時が過ぎ朝が来るのを待つかなかった。

さて、シュラフに潜って恐怖に震えそうな体を誤魔化すように寝返りを打っていると、またポソポソと音がして、音が止んで暫くするとやはり男の声で「すみません」の声。
ああ、タヌキが化かしてやがるか?この時代に。等と無視を決め込むことにした。
暫くしてまたポソポソと「すみません」の声。
ああ、もう何もかも無視して寝てしまえばいいさとタオルでグルリと顔と耳を覆って横になる。
もう音も声も聞こえないまま暫くは自分の耳に流れる血流の音だけを聞いていた、そうするとまたウトウトし始める。

どのくらいだったか、また目が覚める。いつの間にか顔に掛けてたタオルは頭の下にあって、もう音も声も聞こえない。
時計を見ると3時過ぎ、2時間は寝ていたようだがまったく寝れた感じはない。
あと2時間くらいで起床予定であったし、もうこうなったら起きてしまおうかとシュラフから身を抜き出した途端、テントが揺れるほどバスバスバス!とまさに大人の両手でテントの上から叩からた。
奴だ!マズイな、無視したのを怒ってるか、と思うが暫くして相変わらずの「すみません」の声。

テントを叩く力強さとか細い声がマッチせず。なんともじんわりと恐ろしさが増大してきた。
さらに暫くして今度は支柱を倒さんばかりに体重をかけて強くテントの天井が叩かれだした。
バンバンバンバンバンバンバンバン!
自分はもうパニック、外にも出られない中にもいられない。なぜか逆ギレして「なんなんだよ!まじやめろぉぉお!」とか大声で叫んでたと思う。

バンバンはそのまま5分位で鳴りなんだ。
今度は暫くしても男の声はしない。
恐怖は去ったと思った。
何が何やら分からないまま、荷物をまとめ逃げ出すように出発を開始。
大日岳を登り、朝飯の握りとコーヒーを飲んで帰宅につくために設営テントに戻る。
一旦テント内で休憩を取り、さて野営地を撤収しようとテントの支柱を外していると「すみません」と耳元真横で突然つぶやかれた。

瞬時に見てわダメだと思ったが思考よりも先に反射的に振り向く。
そこには、誰もいなかった。

後日、前日そこの山域で一人の男性が遭難死したと知った。
彼だったのかなと思った。
道に迷い心細く死んでいった彼が自分のテントを見つけて助けを求めたのか、それとも仲間が欲しかったのかな。

あれ以来山で不思議な体験はしてないけど、いつもお塩と少量の日本酒を持っていくようにしてる。

山にまつわる怖い話73

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