足立区のとあるマンションに住んでいた頃の話だ。
当時、遠距離で付き合っていた彼女が泊りがけで遊びに来たとき、それは始まった。
週末、仕事の都合で彼女一人部屋に残っていたとき、子供の泣き叫ぶ声を耳にしたという。
自分は引っ越してから三ヶ月になっていたが、そんな声は一度も聞いたことがなかった。
泊まりに来るたび、彼女は子供の泣き喚く声がするという。
中国語か韓国語か、とにかく泣きながら何か訴えているらしい。
言葉の意味が分からないので、普通以上に耳につくとも言っていた。
親か誰かに叱られているのだろうが、なぜかその声はしないそうだ。
自分にはまったく聞こえなかった。
朝から大雨が降り続いたある日曜の昼間のことだ。
二人してテレビゲームをしていたのだが、その最中、突然彼女はテレビを消した。
「ほらっ!聞こえるでしょう?」
彼女に促されて聞き耳を立てると、かすかだが、子供の泣く声がした。
「一度気になってベランダに出たけど、ここの上でもないし、隣でもないのよ」
「1DKのマンションに家族で住むはずないしなあ」
二人でひそひそ話している間にも泣き声は大きくなり、悲鳴もはっきりと聞こえてきた。
確かに日本語じゃない。
「これって幼児虐待だよね?」
こちらが不安になるほど、子供の泣き叫ぶ声は痛々しかった。
「事件になる前に、役所に通報したほうがいいんじゃない?」
自分がとっさに思いついたのは、その泣き声を録音することだった。
それなら匿名で知らせることができると考えた。
マイク付きのレコーダー片手に、部屋の中をうろうろしていると、奇妙なことに気がついた。
マンションは築二十年以上のもので、安普請だったのかもしれないが、屋外より室内の方が声の抜けがいい。
外は雨だからかもしれないと思いつつ、耳を頼りに部屋を移動すると、押入れ近くが一番鮮明に聞こえる。
ふすまに手をかけようとした瞬間、彼女がなぜか制止した。
「やだ」
心なしかこわばった表情で一言。
「まさかあ」
自分は笑いながら、それでもちょっと虚勢を張って、勢いよくふすまを開けた。
その瞬間だった。
泣き声がやんだのか、それとも彼女の悲鳴にかき消されたのか・・・・
子供ほどの黒い影のようなものが、二人の間をぱっと通り抜けていった。
彼女はここにはいられないといって、部屋から逃げ出した。
それを何とかなだめて駅まで送り、自分は一人残された。
あれは何だったんだろう?
駅前の喫茶店で、レコーダーを再生してみた。
テープには、遠くで聞こえる雨音だけが残されていた。
つい最近、そのテープを部屋の片隅でみつけた。
何本かのテープと同じように保管してあったのだが、それだけが磁気テープにびっしりとカビが生え、再生できなくなっていた。
ほんのりと怖い話13