友人Aが新入社員だった頃の話
研修も終わり部署に配属され、慣れない上に目が回るほど忙しい生活が始まった夏頃。
毎日のように帰宅は深夜になってしまい、実家通勤とはいえ会社から帰る頃には家族は誰も起きているわけもなく玄関は真っ暗で、身も心も疲れきったAは、静まり返った暗い家に帰るのがだんだんと嫌になっていったそうだ。
その日も帰りが深夜になり、家に帰りたくないなぁと思いつつ、車で目的もなしに遠回りしながら家に帰っていると、どこを間違ったのか、気付くと実家から少し離れた山の入り口を登り始めていた。
いつもなら、さすがに遠回りしすぎだと引き返すところを、その日はなぜかいつにも増して帰りたくなく、どんどん山を登って行くことにしたそうだ。
いくつかの分かれ道を曲がり、だんだんと鬱蒼と、道も細くなったところで、道は行き止まり、小さな川原に出た。
そこは周りの鬱蒼とした木々も途切れ、川のせせらぎと月明かり、陳腐な表現だけど、とても幻想的な場所だったそうで、不意に目の前にひらけたその光景にAは感動して、近くの手頃な岩の上に座り込んでしまったそうだ。
Aはしばらくそこで川のせせらぎを幸せな気分でボーッと眺めていると、身も心も疲れきっていたせいか、岩の上に座ったままつい寝てしまっていたそうだ。
どれくらいたったのか、肌寒さにふと目が覚めると、風が少し出て、月明かりも雲に隠れてしまっている。
辺りはさっきまでのような神秘的な雰囲気は欠片もなく、足元も覚束ないほど暗くなってしまっていた。
Aはうたた寝してしまったことを後悔しつつ、携帯で足元を照らし、慎重に車まで戻ろうとしたそうだ。
すると、自分の後ろからガサッと木々を揺らす音がした。
熊や猪なんかが出るような山でもないんで、Aはなんとなしに振り返ったそうだ。
そこには対岸の木々の隙間にびっしりと白く浮かび上がる顔があった。
Aはその場で気を失ったそうだ。
次の日、大遅刻したAは上司にこれでもかと言うほどこっぴどく怒られたのですが、つい先日Aとその上司はめでたく結婚しました。
どうやら叱って凹みすぎたAを上司がフォローしようと飲みに誘ったのがきっかけだったそうです。
Aが見たのはなんだったんでしょうね。
不吉なものではなく、幸運な何かだったんでしょうか。
山にまつわる怖い話61