今日は母がまだ若い頃に聞いてきた話をします。
母がまだ若い頃に聞いて来た話ですから、戦後10年前後だと思って下さい。
田舎の宿場に来年の春に東京の大学に受験をするという一人の若い男が、海に見える宿屋に夏の間だけ避暑兼受験勉強のためにやってきました。
実家はまだ幼い弟妹達、祖父母に両親、子守娘に下男…と豪農ゆえに家族や出入りの人間が多く、せっかく皆の期待に答えたいための大学受験の勉強なのにうるさくて勉強も出来ない、と祖父母と両親に頼み込んで、海辺の宿屋にやって来た。
彼(学生さん)が案内された部屋を見ると、窓の向こうには青い海原が広がっていて、昼間は海からの涼しい風が入り込んで中々気持ちよかった。
畳みも痛んでないし、綺麗に掃除されている。
8畳一間の部屋だが、居心地は良かった。
部屋の中ほどに入ってふと、入り口のふすまを振り返ると壁に向かって文机で勉強している若い男の後姿が。
思わずびっくりした学生さんだが、気を持ち直して話しかけた。
「あ、あの今日からこちらでお世話になります。どうかよろしくお願いします」
男は背を向けたまま「よろしく」とだけ言った。
学生さんは(愛想悪いな…)と思ったが自分も勉強しなきゃいけない身だし、早々他の人に構っていられないことを思い出して、
自分も窓際の方にあった文机に向かって勉強に取り掛かった。
目の前の文字が読み辛くなって初めて日が暮れたことに気付いた。
振り返ると男もまだ、暗い机に向かっていた。
「電気を点けても宜しいですか?」
学生さんが尋ねると男は「はい」とだけ答えた。
部屋の電気を点けたとほぼ同じに下の階から「ごはんですよー」と声がかかった。
「はーい」と返事して部屋を出ようとしても、男は一向に立ち上がらない。
「あなたは行かないんですか?」
学生さんが声をかけた。
「私はもう結構なんです」男が答えた。
「そうですか…では僕、行ってきます」
「いってらっしゃい」
学生さんは何だか男との距離が縮まった気がして、その日はしっかり夕飯を食べた。
学生さんは夕食の後も勉強した。
トイレに行きたくなって、初めて男が一度も立ち上がった気配がない事に気付いたが
「僕が夢中になってたから気付かなかったんだろうな。あの人も頑張るなぁ」
と考えていた。
寝る時間になって布団を引いたが、男はまだ机に向かっていた。
「お休みにならないんですか?」
学生さんが話しかけると
「僕は結構です」と答えが返ってきた。
「ではお先に」
「おやすみなさい」
学生さんが部屋の電気を消すと明かりは男の机の上の明かりだけになった。
学生さんは男に背を向けるように眠った。
次の朝。
学生さんが目を覚ますと男はもう机に向かっていた。
軽くあいさつをして、学生さんは洗面に向かい、そのまま朝食を食べた。
気が付いたがここの宿屋に泊まってるのはどうやら自分と男だけらしかった。
昼間も難なく終わり、夜、その日は蚊が凄い夜だった。
線香を炊いても蚊が襲ってくる。でも窓を閉めるととても暑い。
学生さんは男に話しかけた。
「蚊が凄いですね~、痒くないですか?」
男は答えた。
「私は息をしてませんから」
学生さんは、(あ、蚊は人の息に反応するって聞くからな…なるほど)と自分も呼吸を止めてみたが、やっぱり蚊に刺されてしまう。
その夜は勉強にならず、寝ることにした。
何日も過ぎて、やがて夏休みを終えるようになり学生さんは家に帰ることになった。
男に最後の別れを告げたが、最後まで男は振り返る事もなく学生さんに顔を見せなかった。
学生さんは同室だった男の事を聞こうとした。
もしかしたら、春、東京の大学で会えるかもしれない。そう思ったからだ。
だが、女将さんは意外な事を言った。
「ここは坊ちゃんのお家専用のお宿ですよ?他家の方はお泊りになれません。」
「え?でも、僕の部屋に若い男が勉強してたよ?」
「いいえ、ここにお泊りだったのは坊ちゃんだけで、後は私(女将)と娘(女中)と裏にいる私の主人だけですよ」
学生さんは、彼が言った「息をしてませんから」を思い出した。
慌てて自分が寝泊りしていた部屋を見に行ったが、そこにまだ男はいた。
だが、学生さんは男に話しかけることなくその宿(実は別荘)を後にした。
男は、生きていなかったのだ。
学生さんは無事、東京の大学に入学した。
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